徳川時代の海峡の水先案内

 寛文10年(1670)、幕府は河村瑞賢に東廻り航路、西廻り航路の開拓を命じた。奥羽地方の米を江戸・大阪に効果的に運ぶためである。新井白石の奥羽海運記によれば「長州下関沖海中に石礁あり、海船之に触れれば忽ち敗毀を致す。故に務場人役に委ね常に嚮導小船を備え、運航を指引し以て危礁を回避せしむ。」とある。現在の水先案内の事である。寛文以後、自然と集まり一つの組合となって営業された。伊崎(下関)に殆どの水先人が住んでいたので、伊崎付船ともいわれた。(註 北前船の始まりである。) 加賀藩は100石船 石松代参30石船 因みに新潟港では、享保時代「水戸教」と呼ばれる水先案内があった。伊藤家が代々世襲であった。関門より約55年後の事である。現在水戸教公園があり、船見櫓を復元したものがある。
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by kshpa | 2008-03-03 14:59  

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