<   2007年 08月 ( 2 )   > この月の画像一覧

 

関門海峡の水先人

関門海峡の水先人
○ 関門海峡の水先案内の歴史は古く神武東征、神功皇后の外征、寿永の源平壇之浦の合
  戦、文禄年間の豊臣秀吉の朝鮮出兵軍の海峡通過等々の歴史の裏側に語り継がれてい
  る。

○ 寛文10年(1670)河村瑞賢は幕府の命により、東廻り海運を開き、続いて西廻り海運を開
  いた。奥羽地方、出羽の産米の移入計画であった。後年の北前船の初である。新井白石の
  奥羽海運記によれば「長州下関沖海中に石礁あり、海船之に触るれば 忽ち敗毀を致す。
  故に務塲人役に委ね常に嚮導小船を備え、運航を指引し、以て危礁を回避せしむ」とある。
  現在の水先案内の事である。風・潮待ちの泊地として南風泊(はやどまり)福浦湾(下関・
  彦島)田野浦(門司)が利用された。寛文以後自然と集まり一つの組合となって営業された。
  小瀬戸に沿った伊崎(下関)に殆どの水先人が住んでいたので伊崎付船とも呼ばれてい
  た。

○ 明治政府は明治9年 任意水先制度の採用を決定。西洋形船水先免状を制定し翌年水先
  免状・第1号として、モールマン、第2号、第3号に 北野、富田に授与されたが日本人の活
  躍の場はなく消えていった。当時の外人パイロットは東京湾~和泉灘~瀬戸内海~長崎に
  至る免状を所有している人が多かったので、関門海峡も彼らの活躍の場であった。

○ 明治21年モールマンが二代目神戸港長となった。彼は「大いに邦人の水先人受験を奨励
  した」との記録がある。多くの外国船が来邦するようになったが、正規の水先人が少数であ
  ったので、所謂 潜りパイロットも多くいたようである。
  明治16年下関港 22年門司港が石炭等の五品目の特別輸出港に指定され、外国船が入
  出港するようになった。5月升田音松(神田出身)吉原辰造(向島)が免許水先人となった。
  現存する名刺には英語で名前と下関海峡の免許水先人 六連(Rokuren)とある。本来は
  門司港より六連島間の仕事だが、六連島~神戸の仕事もしていたようである。明治28年
  日清講和会議に来関した、李鴻章の船の水先案内したとの自慢話が升田家に口伝された。

○ 明治32年水先法公布、この法律の眼目は国籍条項と定年60才として外水先人をなくす施
  策である。因みに最後の外水先人が去ったのは、大正14年である。明治37年6月下関水
  先区が設置された。当時の内海水先人には3枚免状の行使が許されていた。関門海峡は内
  海水先人と下関水先人の両者が仕事をしていた。当然この問題は軋轢を生じた、紆余曲折
  あったが昭和33年4月 円満解決した。

           ホームページ開設にあたり 西部海難防止協会 濱嶋会長より寄稿
[PR]

by kshpa | 2007-08-20 15:34  

日本丸寄港!

日本丸が寄港しました。
c0130207_1746474.jpg
日本丸が寄港しました。日本丸が寄港しました。
[PR]

by kshpa | 2007-08-03 17:46