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2023年 新年のご挨拶

新年あけましておめでとうございます。

本年が皆様方にとって良い年になりますよう、心よりお祈り申し上げます。


昨今、様々な社会問題が顕在化しており、国連において持続可能な開発目標「SDGs」が採択されました。菅前首相が2020年10月26日の臨時国会で「我が国は、2050年までに、温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする、ずなわち2050年カーボンニュートラル、脱炭素社会の実現を目指すことをここに宣言します。」と所信表明演説を行ないました。


2050年カーボンニュートラルとは、CO2やメタンなどの温暖化ガスの排出量を、森林吸収や排出量取り引きなどで吸収される量を差し引いて全体としてゼロにすることです。海運業界としてはこのカーボンニュートラルの動きが加速しており、国際海運におけるカーボンニュートラルを実現させるためには、既存の重油からゼロエミッション燃料である水素やアンモニア等への燃料転換を図るものです。

関門エリアでは下関市の西山区、長府区のバイオマス発電所、北九州市の響灘沖の大規模な洋上風力発電のプロジェクトが始まります。「共生」と「循環」型社会に向けて一歩踏み出しました。


時間と共に社会が変わり、求められるものは刻々と変化していきます。新型コロナウイルスについては「第8波」が起きています。今年も時流を読み、予見できない荒波を乗り越えていきたいものです。


本年も関門港の航行安全と船舶運航能率の増進に寄与すると共に、法令を遵守し安全運航、海洋環境の保全に努めます。関門水先区水先人会所属の水先人・従業員一同、今後とも皆様方のご支援、ご指導を賜りますようお願い申し上げます。

 

                                 202311

                            関門水先区水先人会

                            会長 長野 茂夫


# by kshpa | 2023-01-01 00:00  

関門航路改修事業・草創の記念碑

 下関唐戸にカモンワーフ魚市場・立体駐車場の東側にバス駐車場がある。設立当時は海に面していたが、現在は奥まった所にある。
 設立趣旨 第四港湾建設局発祥の地に港湾建設の議を書きのこされた先賢の偉業を称え、これを永く後人に伝える。由来記に『古来関門海峡は、我が国屈指の海の要衝であった。往時の海峡は、大きく湾曲した水路に、与次兵衛岩・金伏瀬を始めとする岩礁・浅瀬が随所に散在して航路を複雑狭隘にして、くわえるに名にし負う危潮渦巻き、天下の難所として大いに恐れられた所でもあった。ここにおいて政府は海難の防止と海運の振興のため海峡の一大改良を決意し、明治44年4月この地に内務省下関土木出張所を開設してその事業に当たらせると共に西日本の一帯の公共事業を所掌させる事とした』現在の国土交通省九州地方整備局である。
 

# by kshpa | 2008-08-21 11:28  

関門海峡の安全航行を見守った人達

『僧 清虚』 
大分県国見町の出身、天保7年(1838)行脚の途中、青浜にて何とか海難をなくし多くの人命を救おうと燈明台を作り13年の長い間、燈明の火を絶やさなかった。彼の死後は村人達に引き継がれ、明治5年1月、現在の灯台が完成するまで暗闇の海を照らし続けた。

『岩松助左衛門』 
小倉長浜の庄屋、文久元年 藩主より海上御用掛並び難破船支配役を命じられた。当時、海難事故の多くあった白洲に、燈明台の建設を建議した。当時の小倉藩の財政援助は期待できなかったので、私財を費やし又寄付を募り奔走した。明治新政府の灯台寮は、明治5年、彼の燈明台建設にかける情熱に「神妙奇特の至り」と強く感動し政府直営の事業とした。明治6年9月1日完成・点灯した。彼が燈明台建設の悲願を込めて以来11年の歳月が流れた。彼の顕彰碑は小倉城内にある。

# by kshpa | 2008-05-13 11:39  

徳川時代の海峡の水先案内

 寛文10年(1670)、幕府は河村瑞賢に東廻り航路、西廻り航路の開拓を命じた。奥羽地方の米を江戸・大阪に効果的に運ぶためである。新井白石の奥羽海運記によれば「長州下関沖海中に石礁あり、海船之に触れれば忽ち敗毀を致す。故に務場人役に委ね常に嚮導小船を備え、運航を指引し以て危礁を回避せしむ。」とある。現在の水先案内の事である。寛文以後、自然と集まり一つの組合となって営業された。伊崎(下関)に殆どの水先人が住んでいたので、伊崎付船ともいわれた。(註 北前船の始まりである。) 加賀藩は100石船 石松代参30石船 因みに新潟港では、享保時代「水戸教」と呼ばれる水先案内があった。伊藤家が代々世襲であった。関門より約55年後の事である。現在水戸教公園があり、船見櫓を復元したものがある。

# by kshpa | 2008-03-03 14:59  

関門海峡の航行安全 昔・今

明石与次兵衛碑

 文禄元年(1592年)7月、朝鮮出兵のため名護屋城(佐賀県)にいた豊臣秀吉は、母の急病を聞き、急遽大阪城に向かった。途中、関門海峡最大の難所といわれた『篠瀬(しのせ)』で御座船が座礁した。秀吉は護衛の毛利秀元(後の長府藩初代の藩主となる)により助けられたが、船奉行であった明石与次兵衛は、その責任を負って大里の浜に上陸し割腹して果てた。
 この事件の後、従来海難事故の多い所で『死ノ瀬』とも呼ばれていた。
 後、慶長5年(1600年)、豊前国の領主として入国した細川忠興は、与次兵衛の死をいたむと共に、往来船舶の安全のため『篠瀬』に与次兵衛碑を建てて示標とし『与次兵衛ヶ瀬』と呼ぶようになった。
 1823年長崎・出島のオランダ商館付医師として来日したドイツ人・シーボルトは日本に近代西洋医学を伝え、又日本の近代化やヨーロッパでの日本文化の紹介に貢献した人物である。彼の『江戸参府紀行』によると「記念碑は約2メートル50の高さの四角い柱で、四面からなるピラミッド形の飾り屋根があって碑文はない」とある。
 門司港駅より車で5分の所に和布刈公園がある。丁度関門橋の下である。周回道路の基点にある案内板より、約30mほどで、左へ展望台に行く小道があり、それをのぼると、海難守護神明石与次兵衛塔があり、海峡を見下ろしている。海上から見ると、柁ヶ鼻の海上保安部の基地の上に、瀬戸内海国立公園の看板が見えるが、その一寸上の所に、塔の頭部分が見え隠れする。大正初年ごろから始められた海峡改良工事で、この塔は運輸省第四港湾建設局(下関市)の構内に移され、第二次大戦中は防空壕を掘るため、海中に沈められていた。戦後、門司郷土会その他有志が引き揚げ(頭部は破損していた)、昭和31年4月、海難守護神明として和布刈公園に再建(頭部は本来八角型であったが誤って円型に造る)したが、関門橋建設に伴い同47年この地に移した。

# by kshpa | 2008-02-01 01:00