関門海峡の航行安全 昔・今
明石与次兵衛碑
文禄元年(1592年)7月、朝鮮出兵のため名護屋城(佐賀県)にいた豊臣秀吉は、母の急病を聞き、急遽大阪城に向かった。途中、関門海峡最大の難所といわれた『篠瀬(しのせ)』で御座船が座礁した。秀吉は護衛の毛利秀元(後の長府藩初代の藩主となる)により助けられたが、船奉行であった明石与次兵衛は、その責任を負って大里の浜に上陸し割腹して果てた。
この事件の後、従来海難事故の多い所で『死ノ瀬』とも呼ばれていた。
後、慶長5年(1600年)、豊前国の領主として入国した細川忠興は、与次兵衛の死をいたむと共に、往来船舶の安全のため『篠瀬』に与次兵衛碑を建てて示標とし『与次兵衛ヶ瀬』と呼ぶようになった。
1823年長崎・出島のオランダ商館付医師として来日したドイツ人・シーボルトは日本に近代西洋医学を伝え、又日本の近代化やヨーロッパでの日本文化の紹介に貢献した人物である。彼の『江戸参府紀行』によると「記念碑は約2メートル50の高さの四角い柱で、四面からなるピラミッド形の飾り屋根があって碑文はない」とある。
門司港駅より車で5分の所に和布刈公園がある。丁度関門橋の下である。周回道路の基点にある案内板より、約30mほどで、左へ展望台に行く小道があり、それをのぼると、海難守護神明石与次兵衛塔があり、海峡を見下ろしている。海上から見ると、柁ヶ鼻の海上保安部の基地の上に、瀬戸内海国立公園の看板が見えるが、その一寸上の所に、塔の頭部分が見え隠れする。大正初年ごろから始められた海峡改良工事で、この塔は運輸省第四港湾建設局(下関市)の構内に移され、第二次大戦中は防空壕を掘るため、海中に沈められていた。戦後、門司郷土会その他有志が引き揚げ(頭部は破損していた)、昭和31年4月、海難守護神明として和布刈公園に再建(頭部は本来八角型であったが誤って円型に造る)したが、関門橋建設に伴い同47年この地に移した。
文禄元年(1592年)7月、朝鮮出兵のため名護屋城(佐賀県)にいた豊臣秀吉は、母の急病を聞き、急遽大阪城に向かった。途中、関門海峡最大の難所といわれた『篠瀬(しのせ)』で御座船が座礁した。秀吉は護衛の毛利秀元(後の長府藩初代の藩主となる)により助けられたが、船奉行であった明石与次兵衛は、その責任を負って大里の浜に上陸し割腹して果てた。
この事件の後、従来海難事故の多い所で『死ノ瀬』とも呼ばれていた。
後、慶長5年(1600年)、豊前国の領主として入国した細川忠興は、与次兵衛の死をいたむと共に、往来船舶の安全のため『篠瀬』に与次兵衛碑を建てて示標とし『与次兵衛ヶ瀬』と呼ぶようになった。
1823年長崎・出島のオランダ商館付医師として来日したドイツ人・シーボルトは日本に近代西洋医学を伝え、又日本の近代化やヨーロッパでの日本文化の紹介に貢献した人物である。彼の『江戸参府紀行』によると「記念碑は約2メートル50の高さの四角い柱で、四面からなるピラミッド形の飾り屋根があって碑文はない」とある。
門司港駅より車で5分の所に和布刈公園がある。丁度関門橋の下である。周回道路の基点にある案内板より、約30mほどで、左へ展望台に行く小道があり、それをのぼると、海難守護神明石与次兵衛塔があり、海峡を見下ろしている。海上から見ると、柁ヶ鼻の海上保安部の基地の上に、瀬戸内海国立公園の看板が見えるが、その一寸上の所に、塔の頭部分が見え隠れする。大正初年ごろから始められた海峡改良工事で、この塔は運輸省第四港湾建設局(下関市)の構内に移され、第二次大戦中は防空壕を掘るため、海中に沈められていた。戦後、門司郷土会その他有志が引き揚げ(頭部は破損していた)、昭和31年4月、海難守護神明として和布刈公園に再建(頭部は本来八角型であったが誤って円型に造る)したが、関門橋建設に伴い同47年この地に移した。
by kshpa | 2008-02-01 01:00